メリー苦しみますは、結果的に正しい。

この話題に触れるには、少しずつ春の足音が聞こえてきた、今の時期が最適ではないでしょうか。温暖は、人の心身に安寧をもたらす。

まずダジャレの愚かさについて、明記しなくてはならないだろう。私たちは、大抵の場合、ダジャレを聞いた時に不快になる。それは不快だから不快なのであって、本来、物事のつまらなさや面白さに、理由をつけることは、生活を送る上であまり役に立たない。ただ今回は、言葉の持つ暴力性に翻弄され、今もなお濁流にのまれたままの堕天使たちのことを想い、悪の悪たる由縁を、はっきりとさせる必要があるだろう。

一言で表すならば、人間は美しいものに惹かれるからである。美しさは、誰にも覆せない、絶対の善である。私たちは、誰に教わったわけでもないのに、身だしなみに気を遣い、洗練された建造物などの構造に目を奪われ、また困っている家族や友人を助ける。それらは全て、美しいからである。そしてほとんどの場合、その行為には充足感が伴う。なぜか。それは私にも分からない。本能と言えばそこで話が終わってしまうが、私の個人的な想像では、美しくなることが、人が成長することと同じだからだ。私は、人生は成長が目的だと思う。

ところがダジャレである。困ったものだ。ダジャレのまずいところは、2つある。まず、単純なのである。同じ発音を組み合わせるか、韻を踏むだけである。それは母国語を数十年操り、またある程度の時間会話が続けば、誰にでもできることなのである。いま2秒で思いついたやつがある。肉まんを憎まんである。じゃあピザまんには憤怒があるのかと想像すると、少し面白いが、日常でここまでフォローをするダジャレ発言者は、まずいない。そんなことは、人間の感性の仕組み上、不可能なのだ。

単純と美しさは、遠いと思う。単純と言うと意味が広いが、要するにダジャレは、貧弱なのだ。確かな骨組みに支えられていない、安易な言葉の混ぜ合わせだ。

もう1つは、別にそれ言わなくていいのである。ダジャレを発言しないで、そのまま一般的な会話を続けた場合、なにも波風が立たずに、その時間を過ごせる。笑いは、本来はコミュニケーションに必要ないのだ。正確に言うと、笑いはあったほうがいいのだが、それを生み出そうとするのは、ギャンブルなのである。大前提として、発言者が対話者より数段階上の能力を持っていないと、笑いは生まれにくい。もちろん、似たような人同士の会話で、笑い声が上がることはある。しかしそれは、大抵が共感であって、感心ではない。やりとりの中で、相手の気持ちに寄り添って、「私にもそれが分かる」という、絆の笑いなのだ。たとえば、お母さんが、小学生の息子が補助輪のない自転車を見て、「あの自転車は、タイヤが足りていない」と言っていたと、ママ友に話したら、おそらくうけると思う。これは、実際に面白いし、体験談であるから取っつきにくくないし、発言として柔らかいのである。

一方、エピソードや発言者の言葉遣いのミスなどではない、「私は今から、あなたを笑わせにかかります」という、強靭な言葉の使い方がある。強靭と言うと聞こえはいいが、強靭なのは、発言者のメンタルだけな場合が多いのである。要するに、発想勝負の言葉である。これは基本的に、発言で人を笑わせることを生業にしている人間がやるべきだと思うが、言葉は怖いのである。なまじほとんど全ての人間に与えられているツールであるからに、自由を履き違えた場合、誰にでもできる凶行なのだ。もうやめてよほんと。

ダジャレは、この「発想勝負」の領域の言葉遣いだと思う。会話の中での現れ方が、唐突だからだ。だから、それは別に言わなくてもいいのである。もし言うなら、面白くないと、相手は困る。

この時点で答えが出る。ダジャレは、「美しくない」上に、「余計」なのである。異論はもちろんあっていいと思うが、私と、私の知人たちの認識では、こういう印象でほぼ確定している。

さて、メリー苦しみますである。私が最初にこの言葉を聞いたのは、ずいぶん昔のことだった。20年くらい前の、なんか常盤貴子とかが頑張っていた時代に、たぶん常盤貴子とは関係ない場面で聞いた気がする。たぶんテレビのなにかで、そのフレーズが出てきたのだ。その時は、ほとんど嫌悪感がなかった。まだ小学生だったので、言葉に対してそれほど敏感ではなかった。しかし、「異臭」はあった。それは、発言者の、場を和ませようという光の意志の中にある、鈍くて暗い違和感だった。しかし、子供は気楽なもので、そのまま私は順調に成育した。

別に違ってもこのまま書くけど、みんなもメリー苦しみます嫌だと思ってるよね?そうじゃなかったらこの記事やばいんだけど。分かんない。もしメリー苦しみますが、「別に言われてもなんとも思わない」を飛び越えて、「面白いから好意的に捉えている」という領域が、この世界のどこかにあるのなら、私やばいんだけど。なにがやばいかっていうと、もうかなりがやばい。

最近また「メリー苦しみます」という言葉に触れたから、この記事を書き始めたのだが、その時と、小学生時分では、ずいぶん印象が違った。私は、8年くらい前から、ネット上で読者を笑わせようと試みるテキストを書いている。それは、大喜利とかこのブログとかツイッターでやっているのだが、とにかく曲りなりに、自分の言葉で人を笑わせようと試行錯誤をしている身分であるのに加えて、当然、成長過程の全般的な知性の向上があった。

いつになったら本題にいけるんだこれ。とにかくつまらなかった。久しぶりに聞いたメリー苦しみますは、つまらなかった。係長のハンドタオルの柄くらいつまらなかった。

で、メリー苦しみますは、結果的に正しいのだ。それは、笑いを作ろうとする意志としての正しさではなく、言葉の意味としての正しさである。

メリー苦しみますは、恋人たちがクリスマスで浮かれている中、自分は独り身であることや、仕事に追われることになるための、自虐ネタであるが、そう、その通り。だからあなたは窮地にいるのだ。メリー苦しみますという、美しくなく、必要もなく、使い古された言葉を選ぶあなただから、恋愛と仕事がはかどらないのである。

センスは、どの領域においても、概ね同じレベルで発揮される。人は、行動よりも先に心が動き、その感性をもとにアクションを起こすからだ。それは、言葉選びも、恋愛も、仕事も、趣味も、交友関係も、今後の目標も、食事も、買い物も、いる場所も、全てにつながる。つまり、クリスマスに高揚する予定がないのも、(またはあってもイマイチ気持ちが上がらないのも)、それはあなたの感性から生まれた行動が、実を結んでいないだけなのである。

だから、導き出される解釈としては、その言葉は正確なのだ。苦しみますと言っている人間が、苦しむべく過去と未来を描いている。その場の、空気は和まないが、言葉の意味が通っている。私は、メリー苦しみます以外に、つまらないのに筋が通ってる言葉を知らない。

人が知覚できる領域は、あまりに狭い。私も、こんな偉そうなことを書いてるが、自分が気づかないうちに、失敗していることがたくさんあるはずなのだ。しかし、メリー苦しみますには、努力を怠った準備不足と、その場を濁らせてしまった2重のミスがある。あとメリークリスマスより、音数が1個おおくない? やなんだけど。

最後に、私は、センスが悪いことは、別に罪ではないと思う。あまり人気者にはなれないという、現実的な結果はあると思うが、そこに相手を陥れてやろうとかの悪意がないから、私は構わないと思う。面白い人が、なぜ面白いかと考えた時に、「なんか気づいたらこうなってた」という答えが、いちばんしっくり来る気がする。意識や才能というのは、ほとんどが、ただあるかないかであって、そこに貴賎はない。むしろ私は、このような失敗を反省して、向上心を持った人の、力になりたいと思っている。そうすることで、あなたと私は成長し、人生を豊かにできる。でも実際、メリー苦しみますを言ったあとに、改心する人いないと思うけどね。もうほんとにやめて。